時間を「つぶす」のこと

スマホという遊び道具を忘れました。

通勤電車のなかで安易に時間をつぶすことができず、つり革広告をじっくり眺めたり、まわりの人を観察したり、瞑想したつもりになる禅ごっこを楽しんだりするうちに、昔から一人で考えてきた物語の続きがぽこぽこと浮かんできました。

ひとりっこなので、昔から、一人で想像することは得意ですが、最近では絵や物語を描くことがなかなかできませんでした。これが大人になるということか、としょんぼりしていましたが、どうもただ単純に、想像するための時間をつぶしていたからなんですね。

なるほどね。

月のこと

先ほど、ほんの少しの間、月が、複雑な事情を抱えているように見えました。月は、太陽との関係だけでなく、地球から見える位置や大気の加減によって、その表情をぐんと変えるものです。今では遠くで凛と輝いているけれど、まわりの環境でその印象さえ変えてしまう月は、生きものにもよく似ていると思います。

履物のこと

「草鞋(わらじ)がほしい。」と思っていました。

「窮屈なのは大嫌い!」と声高に主張する我が足。いろいろ試してみましたが、経験上、最も足が喜んだ(=不平を言わなかった)のは、鼻緒のある草履タイプのサンダルでした。

そして、ようやく気づいたのです。「靴」というものは、どうもわたしには合わないんじゃないか、ということに。

それから私は、「鼻緒のある草履タイプのサンダル」を探しましたが、全く見つけることができません。ショッピングセンターに並んでいるビーチサンダルや浴衣用の安い草履は、総じて足がすぐ痛くなるし、靴屋で見かける男物はデザインが好みでもサイズが合わず、履けません。また、その場でぱっと試したい昔ながらの人間なので、ネットや通販では買いたくありません。草鞋を編む講座に参加して、ぜひとも自分で作りたいという気持ちはあるものの、ワラ仕事は冬のもの。今すぐ実現するわけでもありません。

しょんぼりしていたわたしでしたが、紆余曲折を経て、本日、ようやく「履物」を手に入れることができました。入手場所は、巷のおばあちゃまたちが利用する、昔ながらの履物屋さん。日々和装で過ごす人たちが愛用する店には、ちゃんと、履きやすい草履が用意されているのですね。

そんなことも知らずに、こんな歳まで生きてきました。これからは、古き良きお店にお世話になりたいと思います。

モモのこと

たびたび、「時間ドロボウ」のことを思い出す。

ミヒャエル・エンデの「モモ」で描かれた灰色のスーツの集団と、時間を奪われた人々。

ぞっとする世界は、今のわたしが暮らす世界にすでに存在しているように思う。

でもまだ、全部ではない、とも思う。

本当に大切にしたいものは何かに気づいた人たちが、少しずつ時間を取り戻している。

あちら側からこちら側にのこと

「なりわい」や「農」について考える講座に出席しました。

印象に残ったこと、1つめは、山や畑の「めぐみ」も、自分の持っている能力も惜しげなく分け合うけれど、対価を払ったりやモノでお返しをするのではなく、「ありがとう」で終わること。

これは、最近参加した「仕事」について考える研究会のテーマとも合っていて、アフリカの人々のお金の使い方のことを思い出したりもしました。

そして、2つめは、小規模な自然農業の限界を感じたとき、今まで農作物をお届けしていた「消費者」さんにも、同じように小規模農業の担い手になってもらえばいいんだ、という発想の転換をしたこと。さらに、今まで「消費者」だった人たちが、案外上手に小規模農業を始める力を持っていること。

なんだか、ほかほか、わくわくするような、内容でした。

昨日の絵のこと

昨日の絵に色をつけ、コトバとともに「絵とコトバ」に追加しました。

昨日からの、ここを、この色で塗ってみたい、という気持ちが満たされ、落ち着きました。

あの気持ちは、なんなんだろうね。

言葉は残るのこと

言葉は残るよ

いいものも わるいものも みんな残る

誰も聞いていなくても 誰にも見られていなくても

君自身が聞いていて 君自身の心に映り込むから

だからせめて ここには

明るく素直で前向きなものを書いておきたいんだ

ない言葉のこと

昨日から、なんどもここの言葉を書いては消している。

まだ、わたしには、形にできない言葉がたくさんある。

そろそろ絵を描く時がきたのかもしれない。