森でタマムシ様に出会うと、大変ありがたいという気持ちが募って、つい畏まってしまいます。
ご挨拶をし、お写真をとらせてくださいとお願いすると、かなりの確率でその場に留まっていただけているような気がします。
タマムシ様、本日もおありがとうございます。
森でタマムシ様に出会うと、大変ありがたいという気持ちが募って、つい畏まってしまいます。
ご挨拶をし、お写真をとらせてくださいとお願いすると、かなりの確率でその場に留まっていただけているような気がします。
タマムシ様、本日もおありがとうございます。
パソコンの前にへばりついて、ずっと作業をしていたら、苦手だったソフトを使うコツがわかってきました。
ラッキーです。
久々のラクガキでした。ボリューム感のあるものが好きなのかもしれない。
絵を描こうと思って昆虫図鑑をじっと見る。
口の形、触覚のつきかた、羽根の模様の細かいことなどなど。すごいすごいと見続けて、結局、参考資料として開いているはずの図鑑に見入っている。
オオカマキリさんと、コカマキリさんが我が家にやってきました。
肉食のカマキリならバッタが好きだろうという思い込みのもと、草むらでバッタを捕まえて与えてみると、オオカマキリさんは俊敏に食いついてくれましたが、コカマキリさんは見向きもしません。
好みがいろいろあるかもしれないと、庭で見つけたキアゲハの幼虫やダンゴムシも入れてみましたが、いまだ気づいたそぶりはありません。
コカマキリさんのお口にあうものがわかるといいのです。
昔からノートまとめが好きでした。
後で見返すというよりも、手を動かすことで覚えているという感じ。
いろんな生きものの見分け方を覚えようとする今こそ、わたしにはこの方法があっているかもしれません。
クマゼミの鳴き声を言葉で表すならば、わたしは「わしゃわしゃ」だと思うのだが、母は「シャシャシャ」と「チャチャチャ」の中間くらいの音だと言う。
ヒトによって認識が違うのが面白い。
「社会」という言葉のなかで、「システムに組み込まれたわたし」を想像すると、求められた動きをそのままなぞらなければいけないように感じて、窮屈で閉塞的な気持ちになります。
「自然」という言葉のなかで、「システムに組み込まれたわたし」を想像すると、なんだかとても複雑かつ膨大な流れのなかでたゆたっているように感じて、目の前が広がるような気持ちになります。
真夏のアスファルトの上を、黒くて大きなイモムシが歩いていた。
持ち上げてみると、あっつあつ。わたしの体温より高くなっていたみたい。
そのまま涼しい場所まで手のひらにのせていたけれど、あんまり嫌がらなかったのは、わたしの手の方が冷たかったからかしら。
そのうちなじんで、わたしとイモムシはおんなじくらいの体温になった。
本日、トゲナナフシさんが亡くなりました。
去年の秋に家に来てから、庭のハーブや樹木の葉をむしゃむしゃ食べ、越せないだろうと思われていた冬を元気に過ごし、春どころか夏まで生きたナナちゃん。
長くて硬い触覚を口にくわえてあむあむとお手入れする姿が印象的でしたが、時が経つにつれていつの間にか触覚が短くなっていきました。「触覚が短くなる」ということは、わたしで言うと「目が見えづらくなる」とか「耳が聞こえにくくなる」ということなのではないかしらと、ずっと思っていました。
トゲナナフシも老いるし、わたしも老いる。同じ、生きものですからね。