岩手にもちゃんと行きたいなのこと

昨年の3月11日に「岩手にも行きたいな」と書きましたが、中尊寺にも毛越寺にも行ったわたしは、ちゃんと岩手に足を踏み入れておりました。大変失礼いたしました。

毛越寺で最も心惹かれたのは、講堂跡に生えた一本の木。朽ちた部分と生き生き伸びる部分が同居していて、あまりにも素晴らしかったので、その場でガリガリとスケッチしました。

中尊寺は、一大テーマパークのように参道に楽しいものがたくさんあって、とても素敵な空間でした。坂をずんずん上がるところも、圧倒的なお不動さんも、モリアオガエルが棲む池も、白い大きなゾウさんも、手指の形を真似したくなる仏像も、寺の奥に一本生えた天然記念物のモミの木も、とても気に入りました。

また行きたいなあ〜。というか、岩手に足を踏み入れたといっても、この2つのお寺を巡っただけなので、岩手岩手しているところには行っていないのです。なので、やっぱり岩手にもちゃんと行きたいな!です。

質問を選ぶ博士のラクガキのこと

如何にも、私が「円環型時空論」を唱えたクロシ博士だが、何か用かね。特に用がない?そんなわけないだろう。私はクロシ博士だよ。偉大な博士を前にして、聞きたいことがない者などいるわけがない。本来、正式な取材は広報担当を通してもらわないと困るが、私も今は気分がいい。特別に答えてあげよう。ただし、何でも答えるわけではない。私は何でも知っているが、私は、私にふさわしい質問にしか答えたくないんだ。さあ、聞いてみたまえ。

という感じのラクガキです。

描いてみて思いましたが、これは「旅する子どもとお化けの子」に出てくるタイプの、めんどくさいいきものの一種かもしれません。

「普通」ではないわたしを楽しむのこと

「普通」とは。

手元の辞書で調べてみると「他と変わっていないさま。ごくあたりまえなさま。なみ。通常。」とあった。(……ちょっとわかりにくいなこの説明。ちなみにこの辞書、「あたりまえ」で引くと、「当然。ふつう。尋常。」と出る。無限ループである。)

グーグルさんで調べてみると「いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。」と出た。

要は、「普通」という言葉がもつ意味は、そんなに大したものではないのだ。だがこの国で暮らしていると、「普通」という言葉の呪縛を感じてしまう。

「普通」といわれるヒトが、仮に、統計的にもっとも多いヒトであるならば、おばさんになっても実家で楽しく暮らしている時点で、わたしはもう普通ではない。

「普通」といわれるヒトが、仮に、経済的にもっとも求められるヒトであるならば、化粧品をひとつも持たない時点で、わたしはもう普通ではない。

「普通」といわれるヒトが、仮に、ハンディキャップがないヒトとするならば、眼鏡をかけなければ生活できない時点で、わたしはもう普通ではない。

自分が「普通ではない」ということを受け止めた途端、人生はもっと面白く生きやすくなるので、「普通」に悩んでいるヒトにはぜひともオススメしたい。

誰かの景色のこと

目の前にあるのは、赤い岩がごつごつとした山脈の写真。よく目を凝らすと、その場に自分がいるような気がしてくる。

赤い石を拾い上げたら、見た目よりも重いだろう。鼻に近づけると、乾いた匂いがするだろう。削れた岩が多いので、崩れないように、慎重に歩かないと。身を守る草木も生えていないから、風に吹き飛ばされないよう踏ん張らないといけないかも。標高が高いので、空気も薄いだろう。そして、すごく寒そうだ。

わたしがこの景色を見ることができるのは、この場所で写真を撮った「誰か」がいるからだ。

誰か、すごいな。

只今のブロッコリーのこと

扉の画像を変更しました。

1週間前に撮った農園のブロッコリーです。ブロッコリーは、花のつぼみだということがよく分かりますね。

農園にハチやハナアブが来てくれると、可愛くてありがたくて拝みたくなります。

命をつないでくれてありがとう。

目の前にあるもののこと

どんな日も、晴れたら日は昇る。

明けの空の絶妙な色合いは、どうしたらこんな色が出せるのだろうかと、ただただ見惚れるばかり。

春に近づき、カラスは巣作りのための最適な枝を集めているし、スズメはまだ冬仕様でふっくらしているし、メジロは案外ヒトの近くで鳴くこともある。

ロウバイのかすかで清らな香りの次は、ジンチョウゲのたっぷり甘い香り。どちらも風にのって届く香りが一番強く、こちらから嗅ごうとすると逃げてしまう。葉を落とし枝だけになった木々のシルエットの美しさ。桜のつぼみは確実にふくらんでいる。

目の前にあるものを信じるよ。

自分を基準に考えるのこと

ヒトは、自分の中から世界を窺い知ることしかできません。

先日、待ち望んでいた本の発売日に、お目当の本が店頭にないということがありました。単に、入荷されたものの並べられていなかっただけなのですが、わたしの中で色々な思いがよぎり、無駄に店内をうろうろしてしまいました。

その本は、世間一般の売れ筋や話題とは無縁のものと認識していましたが、発売日に店頭ない、と分かった途端、もしかしたらものすごい勢いで売れてしまったのではないか、と思ったのです。自分というそんじょそこらのヒトが長年興味をもっている著者の本だもの、わたしと同じように待ち望んでいたヒトがたくさんいるんだきっと!、という、自分の思考を中心とした解釈ですね。

冷静になろうと検索機で在庫を調べると、どこどこの棚に五冊ある、と出てきました。マイナーな本なので、もともとの入荷が五冊なのですが、このときもわたしには、売れに売れてしまった結論、あと五冊しか無いんだ!と焦りました。さらに、該当の棚に駆けつけてよーく見ても、その本はひとつも無いのです。ここでもわたしは、この短い間に五冊もの本が売れてしまったのかもと思い……、いや、さすがにそれはおかしいやろ、とようやく気づきました。思い切って店員さんに確認し、入荷された本を手にすることができました。

よかった、よかった。

桃の節句のこと

「もっと自由になって」という声が聞こえた気がしたので、お雛様にも自由になっていただいた。

自分がお雛様ならば、まずひっつめ髪を解いて洗いざらしのままなびかせたいし、窮屈な服を脱いで肌触りのよい着心地の良い服だけ着ていたいし、外をぶらぶら歩いて草木や虫、鳥をながめ土を触りたいし、気心がしれた人たちと美味しいものを食べながら他愛のない話をして、腹の底から笑いたい。

わたしは、そういうの、全部できる今を生きているし、これからも、そういうの、全部できる世で、あってほしい。

屋外で遊ぶのこと

農園は、農作業をしてもしなくても、いるだけで楽しい。

作物が順調に育っていればなお嬉しいけど、うまく育たなくても、なんでかなーと考えるのが良い。

何より、野菜も含め、そこらじゅうにいろんな生きものがいて、思い思いに生きてるところを見られるところが素晴らしい。

さらに、畝とは違うところからカブやジャガイモが好き勝手に生えてきて、植え付けたものより生育がよいときたもんだ。ヒトなんぞが手を出さないほうが、うまくいくのかもしれない。

日がな1日、そういう開けた場所でのびのびできたら、最高だわ。