思考停止の怖さのこと

長崎の原爆資料館を訪れたのは、修学旅行だった。

それまで学校や映画などで戦争に関する話を見聞きする機会が多くあったわたしにとって、そこはなるべく長居したくない場所のように思われた。なぜなら、たぶんそこには、ひたすら悲しくて恐ろしいものがたくさんあるだろうと推測されたからだ。よって、計画段階では、なるべく早く立ち去ろうと考えたことも、記憶の片隅にある。

しかし、いざ現地に着いてみると、資料を一つ一つ丹念に見て回り、一緒にいた友達とあーだこーだと意見を言い合い、いつのまにか集合時間をオーバーし、クラスのバスを待たせていた自分がいた。そのくらい、そこにあったいのちに真摯に向き合いたくなるような空間だったのだ。これは、実際に行って見なければ、わからなかったと思う。

こうの史代さんの「この世界の片隅に」を本屋の店頭で見かけたときも、とても気になったけれど、戦争・ヒロシマという単語が目に入り、きっと悲しい話になるんだろうなと勝手に推測し、読みあぐねていた。映画も、DVDレンタルが始まってようやく観るぞ!という気持ちになった。

そして、実際に映画を観てみると、まあ、それは、とても素敵な世界が広がっていた。悲しい気持ちにもなるけれど、でも、それだけではない、ちゃんと生きた人がいた、ということを実感できる話だった。

では、映画を観てすぐ原作を読んだかといえばそうでもなく、しばらく経った後「夕凪の街、桜の国」を経てようやく「この世界の片隅に」を読んだのだ。今では、日に何度も読み返しているくらい、大好きな作品である。

この、戦争や原爆といったものと向き合おうとするときに、重い腰をあげるような気合いを要するのはなぜなんだろうか。怖い・悲しいというイメージが、思考停止を助長しているように思う。