思考停止の怖さのこと

長崎の原爆資料館を訪れたのは、修学旅行だった。

それまで学校や映画などで戦争に関する話を見聞きする機会が多くあったわたしにとって、そこはなるべく長居したくない場所のように思われた。なぜなら、たぶんそこには、ひたすら悲しくて恐ろしいものがたくさんあるだろうと推測されたからだ。よって、計画段階では、なるべく早く立ち去ろうと考えたことも、記憶の片隅にある。

しかし、いざ現地に着いてみると、資料を一つ一つ丹念に見て回り、一緒にいた友達とあーだこーだと意見を言い合い、いつのまにか集合時間をオーバーし、クラスのバスを待たせていた自分がいた。そのくらい、そこにあったいのちに真摯に向き合いたくなるような空間だったのだ。これは、実際に行って見なければ、わからなかったと思う。

こうの史代さんの「この世界の片隅に」を本屋の店頭で見かけたときも、とても気になったけれど、戦争・ヒロシマという単語が目に入り、きっと悲しい話になるんだろうなと勝手に推測し、読みあぐねていた。映画も、DVDレンタルが始まってようやく観るぞ!という気持ちになった。

そして、実際に映画を観てみると、まあ、それは、とても素敵な世界が広がっていた。悲しい気持ちにもなるけれど、でも、それだけではない、ちゃんと生きた人がいた、ということを実感できる話だった。

では、映画を観てすぐ原作を読んだかといえばそうでもなく、しばらく経った後「夕凪の街、桜の国」を経てようやく「この世界の片隅に」を読んだのだ。今では、日に何度も読み返しているくらい、大好きな作品である。

この、戦争や原爆といったものと向き合おうとするときに、重い腰をあげるような気合いを要するのはなぜなんだろうか。怖い・悲しいというイメージが、思考停止を助長しているように思う。

編むのこと

昔の人々に強い憧れを抱いています。

いずれ、昔の人のように、自分の生活に必要なものは自分で用意できるようになりたいと思い、唐突に、草鞋(わらじ)を編む練習を始めました。

インターネットを参考に、家にあったやわらかい紐を使ってふむふむと編んでいたら、意外にも早々に形になってきました。ささいなことですが、自分もまだ捨てたもんじゃないと感じ、ほっとしています。

そばがらの枕のこと

そばがらの枕を愛用しています。

ふわふわの綿やプラスチックストローの切れ端、低反発タイプ、巻いたタオルなどの紆余曲折を経て、そばがらにもどってきたわけです。

これからもお世話になります。そば

想像の力のこと

こうの史代さんの「夕凪の街 桜の国」で、もっとも衝撃だったのは「わかっているのは「死ねばいい」と 誰かに思われたということ」(こうの史代作「夕凪の街 桜の国」(株式会社双葉社)p.16、2コマ目から引用)という言葉だ。それまでそんな風に考えたこともなかったので、はじめはいまいちよくわからなかったが、じきにゾッとして、じんわり怒りが浮かんできた。

そこに生きる、ひとつひとつの命を何一つとして知らないくせに、軽はずみに「死ねばいい」と思う人、「死ねばいい」という行動をとったことにも気づかないで相手を傷つける人、そいういう人は、今も昔も、この国にも、どの世界にも、たくさん、いる。そうして、傷つけられた人だけが、延々と苦しんでいる。そんなのは、おかしいと素直に思う。

自分にはなんの関わりもないことだと全てを切り捨てたり、恐怖や怒りにまかせて考えるのをやめてしまえば、二の舞、三の舞である。どうか、自分自身がよいと思える方向に少しでも進むことができるよう、どこまでも丁寧に想像し、まわりの世界に関わり続けることを、あきらめないでほしい。