久しぶりの細いペンで、久しぶりのラクガキです。
食べられることを前提として細胞をつくりあげる果実という存在はかなりすごいと思います。
久しぶりの細いペンで、久しぶりのラクガキです。
食べられることを前提として細胞をつくりあげる果実という存在はかなりすごいと思います。
美味しい柿を、いただいたのだ。
留守だったので、軒先に置いていってくれたのだ。
収穫物を家主の不在中に軒先に置いて帰れるような社会。そんなふうに安心して暮らせる街にしたいのだ。
わたしは毛糸のパンツ愛用者である。下腹部があたたまる安心感は何物にも代えがたい。
しかし「毛糸の」といいながら、履いているのは、アクリルとナイロンとポリウレタンでできたパンツである。マイクロプラスチックのことを考えるなら、一刻も早くオサラバしなければならない対象だが、ウールのパンツがなかなか見つからない。
ないものは、作るしかない。
編み進めるうち目がつまり、編み棒が動かなくなったほどの腕前だが、編み物に挑戦する気持ちは強い。
五本指くつ下と毛糸のパンツさえ編むことができれば、市場にそっぽを向かれたとしても生きていけるのに。
衣類を買うとき、必ずタグを確認します。
お肌が正直で綿100パーセントのような素材しか受け付けてくれず、どんな素材かを確認したい気持ちや、家で気軽に洗えるものを選びたい気持ちから身についた習慣です。
ここ最近は、マイクロプラスチックを衣類から流さないためのチェックという意味も加わりました。
これいいな、と思う服や下着を見つけても、タグにはポリエステル、アクリル、ポリウレタンの文字。化学繊維の含まれない衣類に巡り会えることのなんと難しいことか!
天然素材100パーセントの衣類を見つけると、それだけで宝物を見つけたような気持ちになります。
身近でできる宝探し、面白いです。
走る電車に向かって手を振る子たちに、手を振り返した。
以前なら「あ!」と気づいて嬉しくなっても、「自分が振り返してもいいのかな」とまごまごしているうちに通り過ぎてしまったと思う。
でも、わたしが暮らしたい社会には、走る電車に向かって手を振る子に、手を振り返してくれるヒトは、必ずいる。
ならば、わたしがなればよいのだ。
虫様の背の模様が二度見するほどカッコ良かったので撮影。
こういう柄の毛織物を羽織ったら、カッコ良かろうな。
古い街セビトには、そこかしこに大きな樹が生えている。地中深くに根を張る大樹は水を組み上げる役割を果たしており、土地の高低に関わりなく水道がわりに利用することができた。そのためセビトでは昔から「大樹に包まれて暮らすと豊かになる」と言われ、皆こぞって樹の根の隙間に住居や店をつくってきた。樹を長生きさせるため、極力傷つけないよう配慮した結果、大通りまで根や枝葉が飛び出しているが、自らの生命を維持してくれている樹に合わせて暮らすことこそ、住民としての矜持なのである。
「世界地図の端から〜辺境の地セビト紀行〜(ブンジ・ゾ著)」
「もっと自由になって」という声が聞こえた気がする。
今よりもっと自由になるということは、どういうことか。好き放題言動し、感情に任せて暴れまわることか。己を優先して、公の場を私物化することか。見たくないものに蓋をして、見たいものだけ眺め続けることか。
どれも、違う。だって、無理を通した先には、わたしが生きたい社会はないのだもの。
もっと自由になるとは、たぶん、我慢するのをやめることだ。我慢するのをやめて、自分が良いと思うことを、はっきりと口で伝えること。
きっとそれだけのことだ。
ヒゲのあるヒトのラクガキです。
筆ペンは強弱をつけるのが楽しいです。
暑くなったり寒くなったり、季節に合わせてふとんや着るものを変えるのは、結構楽しいものです。
増す寒さに耐えかねてようやく毛布を出した夜のぬくぬくときたら!
1年前にも味わったけど、今年もとても喜ばしいあたたかさですね。