久々のラクガキです。
見えるものから見えないものまで、ゆるやかに編み込まれた世の内に、わたしも在る。
久々のラクガキです。
見えるものから見えないものまで、ゆるやかに編み込まれた世の内に、わたしも在る。
帰りの電車に乗り込んでうとうとしていると、まわりも同じようにくったりと眠っている人が多いような気がしてくる。
他の人にとっては、帰りの電車ではないかもしれないけれど。
静岡手創り市に行きました。
陶芸や木工、革細工、糸紡ぎ、彫金など、作家さんの作品をたくさん拝見し、お気に入りの品物に出会うこともできました。
全体的に素朴で、より自然に近い色合いが多かったな、と感じながら登呂遺跡に向かい、博物館の展示物を見て納得。
さらりと軽くて薄地の弥生式土器の風合いに似ている!!!
弥生文化と現代のつながりを感じることができました。
ごうごうと吹き荒ぶ風の音で、目が覚めました。
窓の外はほの暗く、空が明け切っていないのがわかります。
あちらからこちらへ、家々の隙間をうねるように、風がくまなく駆け抜けています。
今年も無事に春の嵐が来てくれたようで何よりです。
頬に雨粒を感じたので、レインコートのフードを被りました。
しばらくズンズン歩いたのち、ふと足元を見ると、水たまりには波紋のひとつもありませんでした。
あれ?雨は?
目をこらすと、霧雨のようなこまかな粒が降り注いでいるが、確かに見えます。けれど、水たまりを揺らすほどのものではない、と。
不思議である。
野菜の苗に水をあげていたら、アマガエルがぴょいと影から出てきました。
そのままジョウロで水をかけてみたら、なんだか満足げでした。
気に入っていただけてよかったです。
以前描いたラクガキの上に、最近買ったばかりの事務的な赤いペンが乗っていました。
不思議なことに、その赤い色が、藁半紙の上で放射状に開いていくように見えました。
どれどれと書き加えたものは生きものたちの一部。
彼らとわたしは同じ世に存在し、つながりあっています。
わたしは彼らに寄らないと生きていけず、彼らはただわたしに成り代わっているだけ。つまり、わたしはすでに彼らの一部で、結局すべては皆おなじ。
そんなことを考えながら描き加えていたら、明るい気持ちになりました。
昨年植えたと思われるアブラナ科の野菜のこぼれ種が発芽して、ぐんぐん大きくなり、見事な菜花を咲かせてくれました。背が高く花の数も大きいので、遠くから見ると花束のように見えます。
母が「あの絵に似てる」と言って、わたしが20年前に描いた絵のことを思い出してくれました。
この絵は「君に無数の花束を」というタイトルで、コトバとともに昔のWebサイトに掲げていたものでした。
自分の描いた絵を覚えていて、しかもふとしたときに思い出してくれる人がいるなんて。
「君に無数の花束を」(2001.4月
傍若無人で自意識過剰
でも、誰よりも強い心を持っていたあの頃の自分に
心からの花束を
お肌の調子は、一時期に比べるとかなり良くなってきました。
赤く腫れ上がったり鱗のように触ると皮膚が落ちる箇所が減り、お肌がお肌のような状態を保ってくれている場所が増えてきました。
ただ、強すぎる春の陽気にあてられてか、一度良くなったのに、再び赤く腫れたようになってしまう箇所もあります。そういう場所はかっかと熱いので、熱を発散させたいと強く思います。
季節の変わり目で、わたしの体調も変化しています。
自分の観察は、まだまだ続きます。
3月27日に生まれたおカイコ様たちが無事に二齢幼虫になられました。
新芽がちょいとだけついていた我が家の桑の葉も、少しだけ大きくなってきています。
おカイコ様たちの食欲を考えると、今後のことが心配になりますが、その頃には桑の葉もすっかりわさわさしてくれていることでしょう。
そういうのが不思議とかちあうのが面白いと思います。