黒豆を煮ています。
ふつふつと煮立つ泡をじっと見つめていると、白と黒のモダンな格子模様か市松模様のようにも見えてきます。
伝統の紋様は自然の中で見出されたとも言われますが、なるほどねえ。
さすが、自然!でございます。
黒豆を煮ています。
ふつふつと煮立つ泡をじっと見つめていると、白と黒のモダンな格子模様か市松模様のようにも見えてきます。
伝統の紋様は自然の中で見出されたとも言われますが、なるほどねえ。
さすが、自然!でございます。
粘菌型の都市想像図……いや、まだ粘菌具合が甘いなあ。
子ども頃にテレビ放映された劇団四季の「ドリーミング」が大好きで大好きで大好きでした。メーテルリンクの「青い鳥」を原作としたミュージカルで、大人になった今でも朗々と歌うことができるくらい、何度も歌って覚えたものです。
そのなかで登場する「太りかえった幸せ」たちの歌を風呂あがりに久々に歌っていて、今更ながらハッとしました。歌詞を引用すると……。(注意)
「あり余る宝 この世の望みは なんでも叶う ああ幸せ ああ幸せ
見たいものは見たい放題 丈夫な胃袋 ああ幸せ ああ幸せ
嫌なことには そっぽを向いて 自分一人だけは ああ幸せ
何にも聞かぬが一番 何にも見ぬのが一番
何にも言わぬのが一番 それに限るって!
何にも知らぬがいいぞ 悩み事は人任せ
それでこんなに 太って 太って 太って ああ
盛大に怠けて 誰でも彼でも 歌ってばかり ああ幸せ 幸せ幸せ……」
「太りかえった幸せ」たちは、欲望のままに贅沢三昧しているところがだめなんだと思っていましたが、歌詞のなかでは「無関心」であることの方が強調されているんだと、今更ながら気づきました。
続いて登場する「小さな幸せ」たちとのお話では、自分のまわりには、常に、無数に、美しいものや喜ばしいものが存在していることと、それに気づくことの大切さも教えてくれます。「気づく」ためには、まわりに「関心をもつ」ことが必要で……なるほど、無関心のままでは、いつまでたっても独りよがりの「幸せ」のままなんですね。ふむー。
(注意)歌詞の引用にあたって
歌詞の引用にあたりwebも調べましたが、この歌の作詞をされた方のお名前が特定できませんでしたので、ここでは紹介していません。85年版ドリーミングの作詞・作曲を手がけた方のお名前はウィキペディアに掲載されていますので、そちらをご参照ください。なお、歌詞が間違っているかもしれません、すみません。
機械に強いふりをしないとついていけないような世の中にありつつあります。
幸い、昔からゲームが好きだったので、機械を触るのは怖くありません。
ゲームやっといて、よかった。
「今日のひとこと絵」は、無印良品の再生紙メモパッドに描いています。
よくあるメモ帳サイズの小さな紙ですが、貧乏性なので、さらに六分割くらいにして、ちまちまと使っております。
「本日は何を描こうかな」と紙を見ると、片隅に青色の小さな小さな紙片が紛れ込んでおりました。ちょうど、右上の丸で幾重にも囲んだ部分ですね。このようにもとの色がわかる紙が混じることは、あまりありません。しかも青色。すごく素敵です。なんだか海のようだと思ったので、たくさんの魚?のようなものを描くことにしました。ぎゅうぎゅう。
この青色は、どんな紙だったのかしら。
抜け毛の時期になりました。
我々も毛の生えた動物の一種なので、秋になると冬毛(?)に生え変わるのでしょうね、でも毎日そんなに抜けて大丈夫ですか?というくらい、毎日毛が抜けます。
はら、はら、はら。
写真にうつるのは苦手です。
先日やる気なく撮った写真も、せめて口角をあげておけば、もう少しましだったのではないかと、しょんもりするような出来栄えでした。
そんな、しょんもりとした気分を絵で表現したら、思っていたよりも、楽しく盛り上がりましたね。(特に、額のあたりが。)
電気もなく、電池も使えない、突然そんな日がきたら、どうしたらいいのか。
「サバイバルファミリー」という映画をレンタルビデオで観たときに、どんどん焦燥感が襲ってきたのを覚えている。いずれ近いうちに自分もこうなるとしか思えなかったからだ。
つい最近も、今だって、地震や台風などのおおもとの災害による被害は少なかったのに、電気がこないという理由だけで「普段の暮らし」ができなくなった人がたくさんいる。
どんなふうに生きたいかと自分に問うなら、この映画の九州のじいちゃんたちのように、土と太陽と自分のちからでたくましく生きる人たちの仲間になりたいと、強く思う。