腕に見合う分だけモノを持ってはみたけれど、何にも持ってなかったときより少し不自由を感じているんだ。
でも、手放すタイミングを掴めない。
腕に見合う分だけモノを持ってはみたけれど、何にも持ってなかったときより少し不自由を感じているんだ。
でも、手放すタイミングを掴めない。
農園の空芯菜が、花をつけていました。
夏野菜づくりに苦戦していたとき、空芯菜だけはめきめきと勝手に大きくなってくれたため、ほのかにクセのある味わいと相まって「強い」という印象でしたが、お花は白くて儚げなのですね。
そういうことを知れるのも農園の醍醐味ですな。
ぽっちゃりってかわいいと思うのラクガキ。
雨浴びを楽しむ様子のラクガキ。
かわいい声がして、子供を抱えたヒトが乗ったことに気がついた。ちょうど乗降の多い駅のあとで、座席にはちらほらと空きがあったけれど、そのヒトは気づいていないようだった。
すぐに「ここどうぞ」と席をゆずったヒトがいて、子供連れのヒトは座ることができた。空いた席に座らずあえて立っていたヒトや、さりげなく立ち上がりドアの前に移動したヒトも、それを見て、ほっとしたようだった。
わたしはそれらをただぼんやりと立って見ていただけだった。けれど、言葉にならずとも気持ちが伝わるようだった。
とてもほっこりしました。
何描こうかな〜とペンを動かし、気づけばこうなっていたというラクガキです。ふくらんでいますな。
「雲がゆくのは」という歌がある。
映画「ドラえもん のび太と雲の王国」の主題歌で、武田鉄矢が作詞し歌った歌だ。ぐっとくる歌詞とちょっと演歌調なメロディが大好きで、こどもながらにこぶしをきかせて歌ったものだ。
今もたびたび口ずさんでいる。歌われる雲の色や形を想像し、空の向こうにいるヒトビトに思いを馳せる。最後の歌詞は、ちょっと格好つけすぎだなと思いつつ、自分だって、ただ純粋に見知らぬ誰かのしあわせを願うこともある。
そういう気持ちは、きっとつながる。
見守る獅子のラクガキです。
圧倒的な力を前に、為すすべもないと思う。
と、同時にわきあがるのは、修復したい、という気持ち。
おこもりの日。
そのうち停電になるかもしれないと、昼ごはんは冷蔵庫の中のものを中心に使い、電気が使えるうちに夜ご飯まで作っておき、風呂にも早めに入っておくという周到なプランで臨みました。
ガスも電気もなかった江戸時代。火を起こすのが大変なので、朝だけ火を起こして飯を炊き、夜は冷や飯を食っていたということを思い出しました。