平昌パラリンピックのオープニング、途中からしか観られませんでしたが、たくさんの光が集まって、つながって、うごめいて、いろいろ自由な形をつくるところや、昔と今の音楽も人も融合して楽しく歌って踊っているところに、とても、とても未来を感じました。すごくかっこよかった。韓国はすごいなあ。
連なる光の輪を見ながら、「覚醒のネットワーク」のことを思い出していました。
平昌パラリンピックのオープニング、途中からしか観られませんでしたが、たくさんの光が集まって、つながって、うごめいて、いろいろ自由な形をつくるところや、昔と今の音楽も人も融合して楽しく歌って踊っているところに、とても、とても未来を感じました。すごくかっこよかった。韓国はすごいなあ。
連なる光の輪を見ながら、「覚醒のネットワーク」のことを思い出していました。
わたしはミミズを尊敬しています。
子どもの頃、芋掘りだかなんだかで畑に行ったとき、農家の方から「ミミズのいる畑はいい畑。ミミズが土を耕してくれる。」と教わって以来、わたしは畑で出会うミミズを「ミミ様」と呼び、勝手に敬っています。
しかし、どうしても解せないことがあるのです。
彼らはなぜか、たびたび地上に出て来て、アスファルト道路を横断しようとします。雨の日は無残に車の下敷きになり、晴れの日は日差しに焼かれ、尊い命を散らしているのです。
雨上がりとなった本日も、アスファルト道路を横断していくミミズたちを見かけました。「なんでなの・・・」と問いかけても、行軍がとまるわけではありません。
ミミズはとても身近な生きものですが、その生態が全て明らかになっているわけではありません。ミミズが地中に出てくることについて、皮膚呼吸や体温調節を理由にあげて、雨のあとは息苦しくなるだの、晴れの日は暑苦しくなるだのと最もらしく語るヒトもいますが、わたしは非常に疑わしいと思っています。
だって、雨の日に地上で必ずミミズに出会うわけではありません。また、土中の全てのミミズが苦しくなって出て来るとしたら、道が埋め尽くされるほどの数になるでしょう。そもそも、雨や炎天下のたびにそんなことしてたら、種としての数が激減してしまいます。ミミズはそんなに愚かな生きものじゃないと思うのです。
もしかしたら、雨あがりや夜露に乗じて、つるつると新天地に移動しようとしていただけなのかもしれません。アスファルトや側溝で道を塞いでいない時代なら、ミミズたちは、もっとおだやかに移動ができていたのかも。
ミミズのミステリーです。
都会のような場所で、たくさんのヒトと、きらびやかなモノの間を歩いていると、だんだんと自分が小さくなっていくような気がします。たくさんのヒトとモノと自分のつながりがあまり感じられず、自分自身がどんどん粗末な、いらないもののような気がしてしまうのです。
田舎のような場所で、大きな川や雑木林の近くを歩いていると、自分がどんどん大きくなっていくような気がします。たくさんの川も林も、水や空気やいろいろなところで自分につながっていると、感じられるからです。
という絵を描きたかったんだけど、画力が足らず、描けませんでした。
春だ。
枠を飛び出して、こんな絵を描きたくなっちゃうくらい、浮かれているぜ。
気持ちだけは。
本日は啓蟄。
啓蟄と聞くと「春になったな」という感じがします。だって虫さんが出てくるんですからね。
写真は、扉絵を撮ったのと同じ畑の様子です。ほうれん草もナズナも楽しくてしかたない感じがいいですね。
見応えのある畑でした。
やあ、君!元気かい?
君が暮らしているこの街は、大人たちが「標準的な人間」のために作り上げたものなんだ。
だから、階段は高いし、ボタンに手は届かないし、モニターも見辛い場所にあるし、難しい文字が並んでいるし、楽しくないニュースが流れているだろう。今の君には、ほんのちょっぴり不便かもしれないね。
そんなときは、外に出て、自然の中で遊んでごらん。
草や木や虫や鳥、自然の中のありとあらゆるものは、何一つとして君のために作られたものはない。
けれど、手に取れるし、よじ登れるし、思う存分走り回れるし、匂いもかげるし、鳥たちの美しい歌声も聞けるだろう。もちろん危険はあるけれど、君がちゃんとわかって付き合えば、大抵のことはなんとかなるもんさ。
君が暮らすこの街よりも、格段にaccessibleだと思うんだけど、君はどう思う?
行事食を大切にしています。
昨日はひな祭りということで、ちらし寿司を作りました。さすがに、アナゴとエビは買ったものを使いましたが、干し椎茸をかんぴょうを甘く煮付けて、薄焼き卵を作って、酢飯とともに盛り付けて、という一連の作業がとても楽しく、そしてとても美味しかったです。
ハマグリの砂出しをじっと観察していたら、水管の先の細かい毛がふるふる震えているのが見えました。今まで、こんなに真剣に観たことなかったな。命をいただきました。
一応、写真も撮りましたが、華やかというよりも豪快な盛り付けになってしまったので、身内で楽しむだけにしております。
子どもの頃は、毎年、ドラえもんの映画を観ていました。ドラえもんが好きだったし、子ども向けの楽しいアニメ映画ということで、連れて行ってもらっていたのだと思います。
そして、少し大きくなってから気がついたのです。あの映画はすごい、ということに。
ドラえもんの映画で好きなものはたくさんありますが、今の自分にとくに大きな影響を与えたものは「アニマル惑星」と「雲の王国」です。ヒトが今のままの暮らしを続けていたらどうなるかや、まわりの生き物の視点などを意識するきっかけになりました。もちろん、子どもの頃にそんな難しいことを考えていたわけではありません。ただ楽しく観ていただけなのですが、今振り返ってみると、そんな気がするのです。
あと、武田鉄矢がつくった主題歌が、もう、本当に大好きで。「少年期」とか「時の旅人」とか「雲が行くのは」とか「天までとどけ」とか、言葉が直に胸に響いてきます。
自分を形づくったもののひとつだと思っています。
高校生の頃まで、お絵かきの道具には色鉛筆を使っていました。
色鉛筆がとても好きだったというよりは、絵の具の使い方がよくわからなかったので、色鉛筆さんのお世話になっていたという感じです。
色鉛筆は「使い方」なんて習いません。好きなように色を重ねて、遊ぶことができたので、楽しくいろいろお絵かきをしました。
一方、絵の具には、ずっと苦手意識を持っていました。学校で「使い方」を習いましたが、なかなか上手に使えません。パレットの上できちんを色を分ける、混ぜる時は別の場所に移す、筆をきれいに洗ってから別の色を塗る・・・。教わったとおりにやっても、思ったような色にならないし、変なムラはでるし。自分には合っていないと思っていました。
大学に入り、急に、絵の具を使ってみようと思い立ちました。道具がないので、パレットがわりに食品トレイを使いました。別に誰に見せるわけでもないという気楽さで、色を混ぜてみたり、水を足してみたりしていると、だんだんと面白い色が出るようになり、ようやく絵の具の面白さがわかるようになりました。
「使い方」は知っておいた方がいいけれど、「使い方」を無視して、自分で楽しく遊んだ方が早く上達することもある、と気づきました。
春の嵐が通り過ぎ、春が一気に訪れました。
こんなこと、にんげんにはできないぜ。
ちきゅう、すごい。