面倒臭いを抱えて生きるのこと

みなさんは「親知らず」を抜きましたか?

奥歯のさらに奥にあり、生えてきたり生えてこなかったりする、あの歯の「親知らず」です。わたしのまわりにいる人は、大概が「全部抜いた」と申しております。しかし、わたしは抜きません。

10年くらい前、4本ある親知らずのうち、一本がぐいぐい生えてきて口の中がぽんぽんに腫れた時も、抜歯しない主義の歯医者へわざわざ出向きました。その後も、近所の歯医者などに「疲れたり免疫力が下がったりするたびに腫れますよ」と抜歯を勧められ、確かにそのとおりになっていても、突っぱねています。

残りの親知らずは、びっくりするような方向を向いたり、完全にぱったりと倒れたりしているものもおりますが、今まで一度も悪さをしたことはありません。腫れるのは、他の歯と同じ方向に生えようと、ちょっぴり出てきたたった一本。普段はとても大人しいのですが、ストレスでしょんぼりしているときなどに、まれに腫れてきます。

今も、痛くて困っています。でも、今回の痛みは、自分が思った以上にストレスを抱えており、免疫力も低下してしまっていたということに気づくきっかけになりました。

回りくどくて面倒臭いことだらけの自分ですが、その頑固さが面白いとも思うので、このまま抱えていってやる!という気概でおります。

樹の幹に暮らすたくさんの生きものたちのこと

大きなサクラやクスの樹の幹は、デコボコと割れ目が多く、粘菌や菌類、苔やシダ、虫や鳥など違う生きものたちの温床になっており、大変見ごたえがあります。

一方、ボロボロの表皮を押しのけて、若くてつやつやした枝がニョッキリ生えてたり、みずみずしい新芽が出てきたりもして、内側からは活き活きとした樹自身の姿が窺い知れます。

本日はそんなたくさんの生きものを支える樹というひとつの生態系について思いをはせ…、これって地球と同じじゃんと、思ったのです。

我々が暮らす表層はゴツゴツとして、いろんな生きものがそれぞれ過ごしやすい場所で好きなように暮らしており、内側からは新しい地球成分がマグマになって盛り上がってくる…と。

樹の表皮を垂直に登っていくアリたちを眺めるように、わたしたちの姿を上から眺めてみると、境界線のない小さな水たまりを奪いあったり、違う生きものを無駄にいじめたりして 、どうしてそんなにダサイことばっかりするんだろうと呆れてしまいます。

「家畜」のこと

母が子どもの頃、家にはハルハナという馬がおりました。雪深い山里で、馬は大切な働き手なので、土間に厩(うまや)をつくり、家族同様大切にしていたといいます。

リトルワールドにある「山形県月山の家」も同じような造りで、玄関を入り、土間のあたたかい炊事場の近くに、馬のいる場所があります。母の生家がなくなってしまった今では、こんな感じかしらと想像するしかありません。

ヒトの暮らしを助けてくれる・ヒトの糧を生み出してくれる生きものを、大切に大切にしてきたのは、ほんのちょっぴり前のこと。もちろん今でも、大切に大切にしている人たちはいるでしょう。

でも、そうした生きものが身近にいないわたしにとって、「家畜」という言葉から想像する場面はひどく殺伐としています。「畜舎」の外で生きものたちがのんびりしている姿も、あまり見たことがありません。むしろ、そのにおいがきになって、身動きのとれない金属の檻のなかで、糞尿にまみれているんだろう、と漠然と考え、それ以上の関心は抱きませんでした。そうしたしわ寄せが、今、感染症で苦しむ家畜たちに現れているのだと、ようやく気づきました。

別の命とともに生きること、それをいただくこと、そうしたことをちゃんと知り、そうした暮らしを大切にしている人を応援し、さらに自分もそんな風に暮らすことを目指していきたいと思います。

樹形のスペクタクルショーのこと

世にたくさんいるであろうシルエット好きのひとりです。

日没がゆるやかになり、真っ暗だった帰り道が少しだけ明るくなると、葉っぱをおとした木々さんたちの圧倒的に素晴らしい樹形が、夕暮れの空を背景にくっきり浮かび上がります。

さながら、毎日スペクタクルショータイムです。

あえてタグを表に出すのこと

「どんな素材でもどんな織り方でもなんともないぜ」というお肌ではないので、常に触れることになる肌着には気を使います。

しかし、お肌も生きているので、いろいろ素材に気を使っても、ささいなことで荒くれちゃうこともあるのです。荒くれちゃったお肌には、今まで気にならなかった縫い目や洗濯タグも、自分を刺激するモノになってしまいます。

そんなとき、肌着を裏返して使うだけでお肌はだいぶ落ち着きます。縫い目のない商品もありますが、手触りが好きになれなかったりもするので難しいところです。

縫い目も洗濯タグも、「デザインとして外に出してカッコイイ!あえて外に出してるんだゼ!」というものを増やしたいですな。

節目があるのはありがたいのこと

続く世に、節目があるのはありがたい。

というわけで、節分です。今年は、大垣の枡工房桝屋さんで購入した枡に入れて、豆をまきました。いい感じです。

今までは節句そのものを楽しんできましたが、ほんの少し体調を崩し、回復後すぐの節分は、ちょいと気合いも入ります。

なんとなく調子が悪いとき、これを機に悪いものとおさらばして、気持ちを切り替えるぞ!というタイミングが何度かあるのは、ありがたいことだなと実感しました。