てんでばらばらな落書きのこと

「はい、そうなのです。朝起きたら髪がてんでばらばらになっていて驚きました。どうも、髪たちはひと束ごとに集団を作り、わたしが寝ている間は頭から離れ、思い思いに過ごしているようなのです。普段は、夜明け前に順序良く頭に張り付くようですが、昨晩はわたしが随分夜更かししてしまって。髪も自由に過ごす時間がとれず気を揉んだのでしょう。目覚ましの音とともに、慌てて戻った拍子に頭に張り付く順序を忘れてしまった、と。髪たちはとても照れ屋で、明るいうちは自ら動こうとしませんから、今日は、この頭のままで過ごさなければいけません。今後、夜更かしはほどほどにしたいと思います。」

便利でお手軽なごはんのこと

ドラえもんに出てくる、面白くてお手軽なごはんがとても好きです。

例えば、テーブルかけからカレーライスが出てくるとか、大根を割ったら中から熱々のカツ丼が出てくるとか。夢のようじゃないですか。

この夢のようなシステムは、すでに、レトルト食品や冷凍食品として実現しているのだと、最近ようやく気づいたのですが、レトルト食品や冷凍食品をあたためて食べたときの自分のことを思い出すと、ドラえもんのような「わあ!おいしそう〜」という感じがなく、全体的に味気ないところが、とても残念。

とても便利でお手軽な世の中になったというのに、なぜだろうか。

きらいを考える、その1「写真」のこと

わたしは、自分の姿を写真に撮られるのがきらい。

なぜなら、自分の姿を見るのがいやだから。

なぜなら、胴長短足のどっしり体型で、化粧もせず、服のセンスもイマイチな、みっともない自分を見たくないから。

なぜなら。

胴長短足なのは、植物などを消化するため腸を長くする必要があったから。昔から穀物、野菜、魚など、バランスよく食べるために、ご先祖様から受け継いだ立派な体型なのだ。

どっしり体型なのは、運動は苦手だけど、ひたすら歩くことや作業で体を動かすのは好きで、力仕事も厭わずやってきたから。実は、痩せる必要性をあまり感じていないのだ。

すっぴんで化粧もしないのは、自身にも、まわりの生きものにも無用な負担をかけたくないから。むしろ自然な姿で生きる今のわたしを、とてもかっこいいと思っているのだ。

服のセンスがイマイチなのは、巷にあふれる服にいまいち関心がもてないから。本当は、着心地よく、動きやすく、気持ちが晴れやかになる元気な色の服を求めているのだ。

つまり、わたしは、自己肯定感が非常に高く、わたしのことが大好きで、鏡に映る自分のことを、面白チャーミングな生きものだと思っているのだ。

それなら、どうして写真に写るわたしのことを「みっともない」と思うのだろう。

それは、他のヒトに言われた悪口を根に持っているから。幼い頃、多感な頃、大人になってから、わたしのことをよく知りもしないヒトが、ごく浅い価値観で短慮に口にした言葉のせいだ。

そんなことを、いつまでも気にして、わたしがわたしをちくちくといじめ続けている。

だから、写真に撮られるのがいやなのだ。

……なんだ。そんなつまらない理由だったの。

それなら、わたし、もっと楽しく、散々面白く、とびきりチャーミングな笑顔で写真に撮られてやる。

だから。

これからは、写真に映ることを思いっきり楽しもうと思う。

素顔はとても快適ですのこと

毎日素顔で生きるようになって、2年半くらいが経ちました。

肌荒れから始まった素っぴん生活ですが、毎日、とても快適です。

朝起きて、顔に水道水をぱしゃぱしゃぱしゃと三回かけるだけで、すっきり気持ちよし。

そして、顔に何も塗らずに外出。化粧水・乳液・日焼け止めクリーム・化粧品すべて・その他油的なもの液的なもの含め、なーんにも塗っとりません。日焼け止めをつけていないので、一応の綿の帽子などかぶり、紫外線をなんとなく防いでおります。

帰宅後もクレンジングなど必要なし。(だって、なにも塗ってないし。)お風呂でついでにぱしゃりとお湯をかけるだけで、とてもすっきり。よごれがたまったなと感じるとき(大体週に1度あるかないかという程度)にしか、石鹸(無添加)は、使いません。

「肌のつっぱり」は、素っぴん生活を始めた翌日にはすでに気にならなくなり、2〜3日経つと「つっぱり」という存在自体をすっかり忘れていました。肌は生きものなので、当然、自ら必要な水分を保持する力があるのですね。

さらに、素っぴん生活では早々に「小鼻の黒ずみ」がどこかへいき、毛穴はきゅっと健康な状態を維持するようになりました。今まで何がたまっていたんでしょう。少なくとも、自分から滲み出る油成分ではなかったということでしょうね。

「にきび・吹き出物」は、胃腸の調子が悪いときなどにぽつんとひとつできるくらいで、他には全くできなくなりました。

今まで、そういうものができるのがいやで、石鹸でしっかり洗顔をし、肌を維持するために化粧水や乳液などをつけていたというのに、そういうことを全くしなくなったとたんに、肌トラブルを「忘れる」くらいになるなんて、とても不思議です。普段のわたしたちが、常に「情報」に踊らされ、「商品」を「買わされている」ということでしょうね。

とにかく、素っぴん生活、とても快適です。ふふふー。

ハエも選ばない世界に生きているのこと

「ハエ」と聞いて連想するのは、おばあちゃんちのハエ取り紙のこと。天井からぶらさがった細長く茶色い半透明の紙に、大きな黒いハエが何匹もぺっとり張り付いていた光景です。衝撃的だったのか面白かったのか、幼い記憶のわりに鮮明に覚えています。

そして、ここ10年あまり。黒くて大きなハエを見ていないなと気づきました。家でも外でも出会わず、むしろ駒ケ岳山頂や本宮山の山の中など、意外な場所で出会っています。

駒ケ岳山頂で出会ったのは10年以上前。駒ケ岳は観光客も多いし店舗も近いので「人にひっついてきたんだろう。たくましいことだ。」とのんきに考えておりました。

しかし、大縣神社の奥宮、本宮山山頂を目指して登っている途中、空気もきれいなほどほど高い場所に、ぶんぶんと元気よく飛んでいる黒い大きなハエを見た時、ようやく「あれ?」と思ったのです。

むしろ、あの大きなハエの方が、美しく澄んだ場所を選んでいるんじゃないか。

今、わたしたちが暮らしている場所は、ハエに見捨てられた、ひどい環境なんじゃないか。

ぞっとしました。

ちなみに、本日ハエの絵を描こうと図鑑を開いて……あの、大きな黒いハエがどの種類なのかわかりませんでした……。ハエって、きれいなの、かっこいいのおもしろいの、ほそいの、ふといの、本当にたくさん種類があるのですね!

小さな生きものたちの行動のこと

農園に住む小さな生きものたちの日常は、分からないことだらけです。

特にアリのこと。

ジガバチを集団で襲っている脇に、大量の同胞(アリ)の死骸があったり(何があったの?)、アブラムシを家畜としてせっせと飼う集団と、そうでない集団がいたり(種類が違う?)、知らないうちに伸びていたジャガイモの茎を噛み切った跡(誰が噛み切ったかは不明)の髄みたいなところに集まっていたり(食べてる?)。

不可解で目が離せません。

今年の梅と昨年の梅のこと

今年の梅を漬けました。

梅漬けのメインは例年通り、スーパーで購入してきた青梅(小梅)たちですが、我が家の梅ちゃんも素敵な実をつけてくれたので、ありがたく漬けることにいたしました。今年ついた実はたった4粒なのですが、昨年よりもだいぶ大きく、丸々ふくふくしており、商品の小梅たちよりもどっしり立派な感じです。

ここで、我が家の梅ちゃんを紹介しましょう。

我が家の梅ちゃんは、背丈わずか30センチ足らず。お正月頃に売り出されていた松竹梅のおめでたい盆栽のひとつで、松などと一緒に和風の小さな鉢に植えられています。観賞用のものなので、おそらく花梅だったのだと思います。

それが、昨年はとてもいい感じの実を大量につけてくれたので、初めて梅漬けに加えようということになりました。で、食べてみたら、ものすごく香り高くてとっても美味しかったのですね!とてもびっくりしました。

それから、わたしは梅ちゃんにとても美味しかったことを報告し、お礼を言い、たびたび話しかけるようになりました。今年、美しい花をつけてくれたときも、梅ちゃんの前にしゃがみこみ、「きれいだね〜」「いっぱい咲いてるね〜」「今年も実がつくかな〜」とわくわく話しかけました。

そして、ついたのが、この、立派な実です。いつのまにか梅ちゃんは、観賞用の花梅から、実梅に変わってくれたのだと思います。

上の結果を踏まえ、断言します。

植物は、ちゃんと聞いています。ちゃんと聞いていて、気が向いたらちゃんと応えてくれようとしています。

すごすぎるよ、梅ちゃん!