いきぬきのラクガキのこと

いきぬきのラクガキです。いろいろ描いても形にならなかったのに、とある動画で毛布をかぶる子どもをみたら、ハッときました。なにがハッとくるか、予想がつきませんな。

アリとクモのこと

欄干を走る大きなアリが視界に入り、何気なく目を向けると、アリも立ち止まってこちらに向き直り、身構えてきた。

このとき少し違和感を覚えた。今までアリが、わたしの動きに反応してくれたことはあっただろうかと。

気のせいかな?と近づくと、後ずさるものの逃げるわけでもなく、こちらの様子を窺っている。念のため、あちこちから観察してみると、向こうもちゃんと顔を動かし、わたしを正面からとらえようとしていた。

自分の存在がアリに認識されたのは生まれて初めてだ。このことに衝撃を受け、めちゃくちゃ嬉しくなったが、なんてことはない。奇妙なアリの正体は、アリにそっくりなアリグモだった。

昔からアリの行列を見るのが好きだった。あらゆるものを片付けてくれるアリのことをスゴイ!と感じていた。しかし、アリをじっと見つめても、手のひらの上を歩かせても、アリがわたしを認識したと感じたことはなかった。それが今日、初めてアリがわたしの方を向いてくれたのだ!思い人が振り向いてくれたようなドキドキ感があった。(結果的には勘違いだったが。)

とすると、アリとほぼ変わらぬサイズで、自分よりはるかに巨大な動物まで認識し、臆さないクモのすごさよ。

やっぱりクモちゃんのすごさはすごすぎますな。

飛ぶのはヘタだが飛ぶカナブンのこと

夜、網戸の向こうから、ぶぶぶという羽音が聞こえて来た。見に行くと、カナブンらしき虫が、明るい室内へ向かって羽をばたばたさせている。(網戸があるので入れない。)

慌てて明かりを消すと、カナブンも方向転換し、夜道の方へ羽を広げた。

が。

足場が悪い場所で羽ばたくので、うまく体を浮かすことができない。ぶぶぶと羽を動かしてはバランスを崩してガラスにしがみつく、ということを繰り返している。もう少しよじ登ればよいのだが、ガラスで滑るのか、ビミョーに不安定な場所にしがみついたまま羽ばたこうとする。そしてまた、ずるっと滑ってしがみつく。つまり、飛ぶのが下手である。

以前、カナブンはおそろしく飛ぶのが下手だという動画を見たときは笑ってしまったが、目の前の必死な姿を見ると、不安と焦りが伝わってきた。

なんとかガラスの角度を変えて、カナブンの足場を整えると、カナブンもようやく落ち着き、ばっと羽を広げ……転げ落ちていった。(やはり、体は浮かなかった。)

カナブンは飛ぶのが下手である。しかし、飛んで生活している。それは切なく、愛おしい。

白い花咲く尻を持つ虫のこと

こんな虫を発見して、冷静でいられるはずがない。

カラスウリのように美しい、白い花を尻に咲かせた虫である。朝から興奮のあまりハアハア言いながら何枚も写真を撮るおばさんの姿は、さぞかし異様だったろう。でも構わない。

調べてみるとアオバハゴロモの幼虫らしい。成虫は、名は知らねどもそんじょそこらでよく見かける虫だった。

へー、あのアオバハゴロモさんの若かりし頃はこんなオモロイ感じなのねえ。おばさん、びっくりしちゃった。

すべてがつながる世界のこと

わたしが生きる世界で起きる問題のひとつひとつはわたしのせいである、という考え方がある。例えば、郵便ポストが赤いのもわたしのせい、とな。初めて言われたときは怪しい宗教かと思ったが、その言葉は、その後自然と思い出され、ある日すとんと腑に落ちた。

生態系は全てつながっている。小さなできごとも波及して、いずれすべてに関わってくる。

全てがつながっているということは、わたしが蔑んだり、無視したり、いじめたり、意地悪をして傷つけたことは、すべて波及して、いずれ自分に返ってくる。逆に、わたしが真摯に向き合い、相手の気持ちを考え、話をよく聞き、真剣に思いを伝えれば、それもいずれ自分に返ってくるのだ。

それならばもう、ラブに溢れるしかない。

急にカラフルのこと

ここ数年、自分の行く先が見えてこないと悩んでいたが、結局、どこに根をおろすかを決めきれていないだけかもしれない。いいなという世界は見えている。どう生きていきたいのかもわかっている。そのために歩む道が自分の中から出てくるのを待っていたけれど、道は外にあるのかも。(そりゃそうか。)

いつもながら自己完結なちゅーしょー的表現ですみません。いつか具体的に書けるようなことになるといいな。

覚えておこうと思うのこと

5月のある日、人も車も少ない街なかで、クスノキの葉が風に揺れながら、太陽光をきらきらと反射させるのを見て、「この世はなんて美しいんだ」と驚いたことを覚えている。ほぼ毎日のように通う道で、季節の変化をそれなりに楽しみながら歩いてはいたが「こんなに綺麗でいいんだろうか」と動揺すらしたのは今年が初めてだった。

6月の今、人も車も多くなった街なかの風景は、いつものようにうっすらかすんでいる。

あの美しさを覚えておこうと思う。

麗しの緑のこと

葉っぱがへっついてるのかと思ったら違いました。

深みのある緑と淡い緑の配置が格好良すぎます。木の枝にとまられたら、気付かんかったろうなあ。

ラッキーな朝でした。

雲隠れのこと

ついさっき見上げた月が、今はもう雲に隠れている、という言葉は、移ろいやすい心なども表すが、浮かぶ光景自体はゆったりと優雅なものであると思っていた。

しかし、実際に、先ほど見上げたばかりの月が数分後に見えなくなっていると、少なからず動揺する、ということが分かった。すだれ越しで見づらかったということもあるが、そこにあるはずのものがないという驚きは、見間違いだろうという気持ちと合わさり、無様に何度も角度を変えて夜空を確認するわたしを生んだ。全然、雅じゃない。

雲隠れの歌に込めた想いは、わたしが思っていたものよりも、愕然という気持ちに近いのかもしれない。