道端の苔が気になって仕方がない。
どうしてこんなにヘンテコで豊かで可愛いんだ。
道端の苔が気になって仕方がない。
どうしてこんなにヘンテコで豊かで可愛いんだ。
メニューに「絵とコトバ」を追加しました。
いろいろ考えましたが、やっぱり、自分には「絵とコトバ」が欠かせないということがわかりました。10年以上も昔の「絵」や「コトバ」たちですが、今も変わらず自分のなかにあって、昔と変わらず誰かに語りかけたいことでもあったからです。
凡些亭の理念である「地域の人々が身近な自然を大切に活用・保全・育成しながら、ゆったりのんびり普段の暮らしを楽しむことができる社会」。これは、わたしが実現したい未来の姿です。
この後段部分、「人々が〜ゆったりのんびり普段の暮らしを楽しむことができる〜」ためには、衣食住が足りていることはもちろん、一人ひとりの心が潤い、豊かであることが必要です。
知らない場所で知らない誰かが困っている時、自分が今すぐ対処できることがあるとすれば、その人が目にすることができるかもしれない場所にメッセージを貼っておくこと。「わたしも同じように悩んだよ」とか、的外れでおせっかいなメッセージかもしれないけど、誰かの心にほんのちょっぴりでも寄り添えるかもしれない、その手段が「絵とコトバ」だと思ったのです。
わたしの昔のサイトをご存知の方には、同じ絵をあげたりさげたりあげたりさげたり・・・いつまでも未熟でままで、申し訳ないです。
書き損じ画用紙などを新たな紙にしたいプロジェクトのつづきです。経緯はこちら↓
ミキサーもなく、いくら水に浸してもこれ以上柔らかくもなりそうにない書き損じたちを見て、正直途方にくれておりました。
でも、紙はもともととても貴重で高価なもので、江戸時代には、まちなかに落ちている紙くずを拾い集めて売る「紙くず拾い」という商売が成り立つほど。ミキサーのない時代でも日常的に古紙再生をしていたのですね。その頃の技術が参考になるはず!と検索したら、ありました。
「板上で叩く」これだ!と思い、早速やってみました。
まずは、水に浸した紙たちをぎゅっとしぼって、ひとかたまりにします。
これを、板の上に置いて、どしどし叩きます。道具は、家で余っていたまな板と、飛び散り防止用のサラシ、なぜか倉庫にあった太鼓を叩くバチです。さらに、床の上でどしどし叩いていたら、振動がすごくてご近所迷惑になりそうだったので、まな板の下にはタオルなども引いております。
でも、なかなかうまくいきません。なんか、いくら叩いても、紙がほぐれている感じがしないのですよね。
おかしいなーと思って、またネットに頼ることにしました。今度は「梳き返し」ではなく「和紙」の手順を参考にしようと検索してみると「叩解」という工程があるということが分かりました。和紙づくりの動画も見ると、なるほど、失敗の原因が分かりました。
失敗のひとつめは、紙をしっかりしぼりすぎたこと。カラカラの紙をいくら叩いても細かくならないのと同じで、ある程度水分がないと、繊維がほぐれないんですね。
失敗のふたつめは、叩き方にありました。太鼓のバチを使っていたので、ついつい2本でテコテコ叩いていたのですが、和紙づくりの動画では、重たそうな角ばった材をドス、ドスと下ろしていました。
なるほど、と思い、水を足して、叩き方も変えてみると・・・。
あ、なんか、いいい感じになってる気がする!
ドシ、ドシとバチをおろすたびに、繊維がぎゅっと潰れているのを感じました。やったー。
さらに、鍋で少し煮て、さまします。実際に紙を梳くには、まだまだ紙のかたまりが大きい気がしますが、水の中に細かい繊維が浮いていて、以前よりはほぐれたのが分かります。うう、よかった。
<本日のまとめ(わかったこと)>
いろいろな木の樹皮を見るのが好きで、間近でつい眺めてしまいます。(はたからみたらあやしいですね。)
これは、同じ木の樹皮を、同じような時間帯に撮影したもの。せっかくなので並べて見ました。
上が晴れの朝、下が雨上がりの朝です。下の写真はInstagramさんでコントラストをいじってますが、上の写真は加工なし。お天道様の光をいっぱいにあびていて縁起のよいかんじだったのですよ。
樹皮、好きです。
ただ「在る」だけで美しいと感じるものがあります。
この時期、白菜や大根を畑に植えっぱなしにして、少しずつ食べている方も多いようで、近所では歯抜けの畝が見られます。
多くのおうちでは、白菜らしい形にするために白菜を藁や紐で巻いて畑に植えているのですが、この写真の畑では、自由気ままに白菜を育てていました。そうすると、白菜って、こんなにきれいなフリルになるのね。きれいだし、やわらかそうだし、おいしそう。
畑があるのって、心底うらやましい。